昭和49年01月18日 月次祭



 この月の六日の朝から寒の入りを、同時に寒修行が全教を挙げて一斉にどこの教会でも行う事になった。ここでも日々おかげを頂いております。もう半ばを過ぎました後十幾日かで大寒が終わると同時に、修行が終わるんです。それは何の稽古でも修行のない稽古と言うのはありません。修行が要る苦労が伴わねばなりません。けれどもその稽古が身に付いて来る。その稽古の実が上がって来る所に喜びもまた悲しみもあるだろう。
 ここには信心の稽古に来る。おかげはわが家で受けよと仰る。ここには信心の稽古に来るのであります。取分け寒、又は暑い盛り、寒い盛りに、夏に修行、冬に修行という風に、私共も以前は五十日間でしたけれども、現在は一月間を言うなら、日にちを切って修行させて頂いておる。本気で稽古をさせて頂く。本気で寒修行をさせて貰う。例えばそれは辛い事でもあれば、苦しい事でもある。けれども矢張り有り難いという修行がなされる限り、私は私共に課せられたと言うか。
 一つの難儀と申しましょうか。一年の間に百なら百の難儀というのは受けなければならない様になっておると致しましょうか。それを私共は夏と寒の、寒い時と暑い時の、二月間にその苦労をしてしもうたら、後の十ヶ月はそういう修行をせんでも良いと言う様な事になりはしないかと。さまざまな難儀。例えば教祖様も難はみかげとおおせられる。四神様も難あって喜べと仰せられますのですから。難を即喜びで受けられると言う事は、是は真の信心です。
 ですからそういう姿勢が、いつも出来ておると言う事も有り難いけれども、そういう修行が暑い事、寒い事、辛い事、苦しい事と言う様な事がです。こちらから進んで頂く所の修行こそ、有り難く受ける修行じゃないでしょうか。この有り難く受けれる修行が、一年の内に夏と冬に出来たら、そういう突発的なよろよろするようなと言った様な修行を、避けられると言う事になったら、どう言う事になるでしょうか。是はどうでも寒修行やら、夏の修行やらは、しなければおられなくなって来る。
 しかもさぁという生き生きとした元気な心。何が何でもそれを頂き抜く、やり抜こうという一筋の真心をです、信心修行に打ち込む。それはね確かにそう言う事が言えると思うです。例えば難儀の元を巡りと言う。先ほど光昭がお話を致しておりました。今度は帰る早々、他教会修行で御座いましたから、自分が進んで甘木教会を選んでおかげを頂いた。本当良か教会におかげを頂いたねと言うて、先ず一週間おかげを頂いて参りました。行ってからもう行く早々風邪引いた。
 とにかく休ませて頂く部屋が寒い。とにかくあれだけ大きな教会に、火の気というのが全然ないです。本当に寒い時は寒いとを、そのまま受けて修行する。私はどこへ行っても、暖房がこんな風に効いておりますしね。部屋にはストーブ焚いておりますし。成程温い所から寒い所へ行ったから、その日に風邪を引いたと言うておりましたが、おかげで修行も休まずにおかげを頂いた。
 特別に目をかけて頂いて、あちらの親先生から色々と教えも頂いた。帰りには普通入手困難と言われる、初代の安武松太郎先生の一代記のこんな厚い本が出けてる。私は是は飯塚の大久保先生から送られて、約数冊から持っておりますけれども、そういうご本を帰りにお土産に頂いて帰ってきた。特別な扱いを受けたと言う事は、昔から甘木という所は、とにかく五月頃までは、毎日朝だけはお鏡さんが沢山お供えがあってるから、お餅ばっかりですお雑煮ばっかりだそうです。
 所が行った日からご飯になったそうです。それで修行生の方達が、お前が修行に来たけんで、これはご飯になっとる。大変喜ばれたて言うんです。はぁいくらお雑煮が好きな人でも、何ヶ月ちお雑煮ばっかり食べたら、やっぱりちょっと辟易しますでしょうね。これはしか、昔からです。そう言うとこは合楽辺りは、大変おかげを頂いてる。初めは合楽もそうでした。もう夏となりゃお素麺ばっかり。正月からそれこそ春頃までは、お餅ばっかりという時代がございましたけれどもまぁ合理的になっとる。
 この頃お鏡料お餅米料と言う様な風で、常時お供えがあってる。それでお三宝に乗せなければならないだけを、清めた上にも清めてお鏡さんを作って、五台なら五台のお三宝に乗せるだけしかお鏡さんを作らない。所があっち辺りは、農家が多いですから、どっこも、銘々お鏡さんのお供えが、それこそ山んごと集まるとでしょう。五月頃まではどんどん食べんならんち言うてから、悔やみよりなさったと言う事でした。けどお前が来たから、途端にお客さん扱い、俺達までさせて貰えれると言うて。
 それもこういう丼にご飯がついであって、それにお漬物が丼にボンと出て、何かちょっと一切お菜が。是は三度三度でそうですけれどもそれだけです。とにかく合楽はお御馳走があり過ぎる。別に買ってする訳じゃないけどもそれだけやはり合楽はおかげを受けておるなと言う事を感じました。そう言う様な面白い事苦しかった事また色々と是は甘木でなからなければ教えられぬ様な事も、たった一週間の間だったけれども色々おかげ頂いて帰って来ての話。それの一部を今日は皆さんに聞いて頂きよった様です。
 甘木の信心がそれだからと言うて、合楽もその通りせんならんと言う事はありません。そこにはいわば私と、甘木の先生は人間が違う。あちらは例えば侍のようなお方。こちらは商人の出でございますから大体は。だから同じという訳には参りません。けれども町人には町人の良さ、侍には侍の良さがあるのでございますから、いくら侍であってもです。武士は喰わねど高楊枝的な事ではつまらんのでございます。
 やはり合楽は合楽流の、私は今日お話を聞かせて頂きながら、本当にそげなとこはいっちょ家も真似せにゃいけんねと言いよったけれどもね。御結界にいたから思いよったけれどもそう言う事は要らん。矢張り合楽には合楽の流儀がある。それは相当厳しいものらしいです。合楽では修行しようと思えば限りなしに出来る。だからするまいと思や寝とったっちゃ転んどったっちゃどうでも良いのである。
 問題は先程申しますように、ここには信心の稽古に来る所でありますから、本気で稽古をさせて頂こうと意欲が出てきたら、しなければおられないのである。しかも分かる所が分かる。何時でしたか須田先生に、ここに来て頂いてお話を頂いたように。めぐりという物が、難儀の元になっておるならばです。そのめぐりというのは、こちらから取りに来てもらう。分かりやすく言うなら、私共が天地から受けておる借金のようなもの。それを向こうからいきなり取り来られると、ヨロヨロする様な事もあるけれども。
 こちらから払うという気になれば、楽じゃと言う事なんです。私は寒修行とか夏の修行というのは、そういう気持ちで稽古をさせて頂いたらです、言うならば取りに来てもろうて、ヨロヨロするように難あって喜び、難があった時に喜ぶ姿勢を作ると言う事も大事ですけれども。そうい、払わなければならないものがあるなら、今度の寒修行中に一つ払えるもんだけは払うとこうと言う位な勢いで修行させて貰うならばです。是は大変有り難い事になる。言うならば巡りの出ようがないと言うのである。
 借金取りに来て貰う事が要らんと言う事です。ですからそういうそつのない信心させて頂いてです。めぐりのお取り祓いを喜んでさせて頂きつつ、おかげも頂いて行く、徳も受けて行くと言う様な信心があると言う事を、私は今度の寒修行に見るのでございます。感じるのでございます。そこで皆さんの場合、今度は色々に銘々が工夫を凝らして、それぞれになさっておられます。本当にこれが一月明けた時が楽しみと思うくらいに、それぞれの工夫をなさっておられる。
 修行というものはそういう有難い、同時に修行である。その事を稽古させて貰うという修行なのですから。信心も愈々進んで行く飛躍して行く成長して行く訳です。そういう信心の成長に基づいて、おかげも成長して来るというおかげでないと、おかげが本当のおかげにならない所謂真のおかげにならない。それは真の信心ではないからです。信心の成長を見てその成長に百の信心が出来る、百のおかげを頂いて行く。千の信心が出来て千のおかげを頂いて行くからです。それを真のおかげと言い真の信心という訳です。
 先月15日が、堤さんところの謝恩祭でした。皆さんも御承知のように、あのように去年の4月の13日でしたか。ここの朝参りをさせて頂いて朝参りをして、御理解を頂き頂き亡くなられた。信心しよってどうしてあぁいう事が起こって来るじゃろうかと思うほどしの事であったけれども。段々日にちが経つに従って、本当に丁度この七日の日が、総代の会でございましたから。
 そん時に堤さんが見えてから、それこそ涙ながらに総代さん方、みんなに聞いて貰っておられましたが。本当に皆さんも御承知のごと、とにかく是は本当に親孝行でしたと。是は他人の方達からも、あんた家ん喜代司さんな親孝行と言われた。私もたった一人息子で、どうしてこげな、親孝行な息子に恵まれとるだろうかと思うておるほどしに親孝行だった。所が親先生あの人ばかりは、御霊さんになってからまでも、愈々親孝行してくれますという話をされました。
 そして亡くなってこの方、御霊の働きと言わにゃ思わにゃおられんほどしのおかげになって来ておる事実をです。聞いて頂いて今度の謝恩祭は、どげな形で謝恩祭になるだろうかと思うておったけれども、謝恩祭という言葉ですらが、どうもおかしいと思うておったけれども、やっぱり親先生今度の15日のお祭りも、謝恩祭にして下さいとこう言うのです。恩に報いる所のお祭りだと。私は今度十何年行きましたけれども、十何年振り初めて、本当に有り難いお祭りを、あそこで仕えさせて頂いた。
 皆さんがお参りになる。去年はとにかくお参りが少なかったです。しかも信心のない親戚やら何やらが、何かよど祭りのようにして、ドヤドヤ集まって来なさる。女工さん達がこうやって集まって来なさるという感じのお祭りでした。だから非常にお祭りが仕え難かったです。所が今度はそういう方達が誰ん来とらん。そしてやっぱりあそこ一杯でした。そりゃお供えでも御参拝でも。それは本当にお祭りが仕え良いお祭りでした。そこで私は皆さんに聞いて頂いた事でしたけれどもです。
 真の信心真の信心とあらゆる角度から、色々に説かれますけれども、その真の信心の入り口貴方の信心は、真か真ではないかという事を確かめる為にはです、私共が言うなら、難儀なら難儀に直面した時にです。これ程信心するのにと言う様な心が起こったり、そこで信心がグラグラしたりする信心であったならば、まずそれは真の信心ではないと言う事を思わなければいけません。
 真の信心とはそういう時にです。それこそ叩かれてあ痛と言う前に、済みませんという心が生まれて来る。本当に御神意を分かれば分かるほど、その事が難即喜びとして受けられる姿勢が出来ておると言う事が、真の信心の入り口だと言う事を頂いた。考えて見ると、私自身の事を思うて見るのにもです。私はやはりそういう時に真の信心であったから、真のおかげを頂いて来たんだ。何かがある度にグズつくとこじゃない、その度に信心が飛躍しておるという事です。私の場合は何かがあればもうグズつく。
 今日中島の上滝さんがお願いに来てみえた。24日が今度のあそこの謝恩祭。だから上滝さんあんた家ん謝恩祭ばっかりは、それこそ一年の内何遍かしかお参りが出来ん位。それでいておかげは頂いとるとじゃけん、本当の意味でお礼のお祭りをせにゃいかんよと言うて言うた事でした。この頃堤さん方に参りましたら二階に上がって来てそして本当、親先生御無礼ばっかりしておりますばってん、本当おかげはそれは頂きよります。もう四人の息子どんが、そりゃ、何とも言えん親孝行をしてくれます。
 又本当におかげ頂けてるです。家庭の上にも、経済の上にも人間関係の上にも。しかも、四人の息子がおる四人の息子とも、打ち揃うて親孝行なんです。有り難いねて。けれどもあんた家には、あんまりおかげ頂きすぎて、おかげで信心が出来んね、て私が申しました。その話を今日私が朝の御理解でしておった。それを今日はテープで聞いて行って、ここへ出て来てから。
 先生今日は痛いとこを突かれました。アンタがそれを痛いと感ずる位なら、まだ脈があるとじゃから。さぁ明日から出て来んのとは言わんけれどもです。一年の内に何回かこげな事じゃいかん、こげなおかげ頂いておるから。愈々喜びの信心、お礼の信心が出来なければいけないと言う事に気付かせて頂く様な事は、何回もありよるけれども、それをシダゴダにしておるのが今日。
 だからさぁ明日からとは言わんけれど。何かそこに感ずる時にはもうアンタが幾つになるか。だからアンタが体が弱いから何も出来ん出来んと言うけれども、この余生をです十年生きるか、二十年生きるか知らんけれども、神様にお喜び頂けるような御用の一つも出来るようなおかげを頂こうと発心しなさい。丁度そん時に熊谷さんが参ってきた。丁度昼でしたからお供えを持って、また二度目のお参りをしておられた。
 熊谷さんがもうやんがて八十近いお婆さんが、例えばお月次祭の時には、朝昼晩お参りになるばい。それがどう言う事かと言うとです。決して熊谷サダヨ自分の為じゃない、自分一家の為ではない。勿論信心の有り難さと言う事もあるけれども、あの事も願わんならん、この事も願わんならんという、それは大きな信心の願いというものを持って、そのお役の端にでも立たせて頂こうというのが、あの迫力なんだ。と言うて私は久留米の播磨さんの話をさせて頂いた。
 あの人は寅年と言うから、私と友達と思うておったけれども。今度私は善導寺の教会で、御節を一緒に呼ばれてから、話を聞きながら感心した。改めて播磨さんの信心を見直した。同じ寅年でも一回り私より多いち言う。たまがった。今も中央から信徒連合筑水連合会から、勿論久留米教会の大教会の総代としてです。出社関係だけでもずっと神様の事、教会の事に掛かっておらなければならない。
 2~3年前生きるか死ぬかと言う様な、病気をした時にです。それ以来私のこの体というものは神様の御用に使うて頂くんだと決心した。以来おかげで強うなってこういう御用が出来ておる。有り難い事には息子が信心がなかったつが信心するようになり、仕事の事は、息子に一任しておけば、おかげが頂けるようになり、家内も付いて来るようになり。私はおかげで毎日有り難い御用が出来ておるという話をしよんなさったがです。アンタが弱いから弱いからと、それが強うなるおかげを頂く。
 十年生きるも、二十年の御用にお使い回しの頂けるような、ここで一つ一心発起してです。さぁお話を聞いたけん、今日からという事は出来まいけれども、何かそこにチャンスがあったならです。本気で立ち上がらにゃいけんよと言うてお話をした事です。おかげを頂いておるために信心が出来ん。おかげを頂いておる、アンタ家にはおかげを頂いておるおかげで、信心が出来んのと言う事になる。
 そういう信心では真の信心でない事が分かる。また真のおかげであると言う事でもない事が分かる。だから金光様の御信心は、言うならばめぐりのお取り祓いを頂きつつ、おかげを頂いて行くという、最高の生き方がある。それはこちらから打ち込んでです。難儀の元である所の、それを今日は天地からの借金と言う事を申しましたが。取りに来られたなら、どうでも強引に持って行かれるのですから苦しいから。
 こちらから持って行くような気持ちで信心修行させて頂いたら。それこそ須田博士じゃないですけれども。めぐりの出ようがないほどにおかげが頂けれる。借金払いもどんどん出けて行くに従って、貯金もどんどん出けて行くというおかげであってです。おかげを受ければ受けるほど、有り難い勿体無い、お役の一つも立たなければおられないという信心が生まれて来る。
 そこに上滝さん、生き甲斐を感じれれる信心にならにゃいけんよと言うて。丁度お参りがありません。二人でその事を一生懸命、今日は聞いてもろうた。だから今度のアンタ方のお祭りは本当にそう言う事のお詫びもさる事ながら、本当に信心も出けんのにこの様なおかげを頂いてを、そこに込めてのお祭りにならにゃいけん。そして信心とおかげのバランスが取れて行く所の信心。
 これも光昭が今度、甘木に行ってから頂いて帰って来ておる事を、皆さんに聞いてもらっておりましたが。めぐりを積まない時にはお徳を受けておる時だと。めぐりを積んでおる時にはおかげを落としておる時だ。中途半端と言う事は決してない。今貴方のしておる事言うておる事が、是はめぐりを積む様な生き方かどうかを思うみたら分かる。今貴方の言うたり思うたりしておる事が、是は徳を積んで行くと言う事かどうかと言う事を思うて見たら分かる。
 ちょうど真ん中におって、めぐりも積まなければ、お徳も積まんと言った様な生き方はあり得ない。どちらかなんだと、初代が言うておられたと言う事を、今の親先生から聞いて来たと言いよりました。だからジーッとしておればね、めぐりも積みよらんお徳も積みよらんばってん、めぐりも積みよらんという事は決してない。どっちかなんだと。この生き方は、徳を積んで行きよる生き方だ。
 この生き方はめぐりを積んで行きよる行き方だと。そこでどちらが良いかと言うならば、めぐりを積んで行くというのじゃなくて、おかげを積んで行く、お徳を積んで行くという生き方にならせて頂くと言う事が、信心だと言う事を言っておりました。本当そうだろうと私も思います。そこで停止しておると言う事はありません。停止しておるかのように見えとる時には、必ずめぐりを積んで行っておる時だと思わせて頂いて。
 しかも言っておりましたように、窮屈な中に苦しい中に喜びが分かる。その窮屈な向こうに、自由自在なおかげの世界がある、その世界を本当のおかげである。自分が求めて行くところの、自由の世界には決して自由な生活も世界もあり得ないんだと。と極言してそういう話を聞いて来たと言う様な話をしておりましたですね。
 私は本当にです。例えば今年半年なら半年の修行をです。例えば苦労と言う様なものがあるなら、折角させて貰うならば病気で苦労をしたり、罰金を取られたりと言った様な修行ではなしにです。信心の苦労でそれを支払うて行くような生き方が、ここにあるとするならば、その道を辿らなければ、私は馬鹿らしい様な気が致します。後15日余り残っております。来月の三日まででしょう。一つ寒修行にかけておかげを頂き。
 夏の修行にかけて一年の苦労は、この二月間に済んでしまうと言う様な、借金払いも出来る、また貯金もして行く所の元も作って行くと言う様な填まり方で、修行というものはさせて頂いたら有り難い。今日私が言った事が意味が分かるでしょうか。例えばその実を上げておられるのが、本部で言うならば私は須田先生辺りの生き方だと思うです。めぐりの出ようがないあの生き方には。借金払いもしながらお徳を積んで行かれるという生き方。ですからおかげが何時も、バランスの取れたおかげになって来る。
 私共は何か借金取りに来られて、さぁ難儀な事になって来てから、バタバタすると言う様な信心では、それを有り難く受けきらん。やっぱり難儀を難儀と見たり、感じたりしておってはいつまで経っても信心のウダツは上がりません。真の信心の入り口というのはです。どういう場合であってもそれを受けて、向こうへ突きぬけるという信心の構えです。そういう姿勢を持って真の信心の姿勢と言うのだと。是は真の信心の入り口だという風に聞いて頂いた。私共が信心の苦労信心の修行でです。
 神様に集金に来てもらう様な、強引に持って行かれられなければならない様な修行からです。それこそ有り難い修行に変わって行かなければならん。私は御大祭を仕える度に思います事、また初めてお装束を着けた時に思いました事、実感しました事ですけれども。本当にあげな物ば着たらちょっと窮屈でね、動きが取れんごとあるだろうと思っておりました。所が装束を着けて冠を着けましたら、色んなこう姿態施行なんかね。こういう楽な紋付袴では出来ない事がですね。
 キチッとしとりますとキチッと出来るのに驚きました。一つも窮屈じゃないです。却ってキチッと何もかにも出来るです。あんな装束を着けりゃ中々出来まいごとあるけれどもです、そうじゃないですむしろ、浴衣掛けぐらいにしておる時の方が難しい訳です。これは芝居をするとか踊りを踊るでもそうです。装束なんかパパーッと着けてしまったら、かえって動き難かろうごたるけれども、そうではなくてそれこそ折り目正しい動きが出来るのです。どうぞ寒修行の時には修行中の時には。
 一つ皆さんが装束を着けた気持ちでです。冠被って杓を持った気持ちでです、それに取り組んでごらんなさい。普通で出来ないと思う事が気安う出来るです。これは本当にそれを皆さん、実感される事だと思うです。本気で装束を着けた気持ちで着けると、それは本当に、中々動きが動き難かろうごとあるけれども、反対にそうではない。装束を着けたらそれこそ普通出来ん所がキチッと出来るです。是は不思議です。
 だから私共がですね、目には見えないけれども、装束を着けた様な気持ちで信心させてもらう。言うなら装束を着けた気持ちで、この修行に取り組ませて頂いたら、普通は出来ない事がスッキリ出来るです。これは皆さん一つ本気で体験してみてご覧なさい。その気になったらそれこそ楽に気持ち良く、有り難く出来る。そこん所をしだごだで一偏だん参らにゃんめばってんちゅうごたる事でしたもんじゃ、決してほんにこの寒かとに、しるしい事と言う事になってまいります。
 一つ寒修行に掛けて、もし寒修行の本気での苦労が修行がです。半年間の借金と言うか、利払いを下げ払いするようなものだと言う事になって来たら、集金取りも来んもう後は溜まるばっかりというおかげ。そういうおかげを持って、初めて私は真のおかげ、真のおかげ。そういうおかげを頂けばです。上滝さんじゃないけれども、頂いておると言うならば、頂いておるというその感動がです、次の信心の飛躍の修行になって行かんはずはないという風に思うです。
   どうぞ。